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昇天

登校拒否を続けています。引きこもりです。最近覇気がないと言われました。もうなにもみえない、もうきこえない、あなたの話が理解できない。
そんなわたしの社会の接点はアルバイトです。そういうときだけいきいきしてます。
本も読まなくなったし絵をみてもなんとも思わないです。こないだ友達にすすめえられた映画を見ました。「いい」ことはわかりました、でもそれ以上の感想が思いつかないのです。いままでむげんにあふれてきた言葉が出てこないんです。小説も借りました。2、3行読むだけでもうたえられません。活字がだめ。すべてだめ。
インプットしないのでアウトプットはもちろんできません。なにか作れ、といわれても中身がからっぽだからなにもひねりだせない。
かわりに小さい頃の思い出がなんども走馬灯のようによぎります。
最近はふとんで巣を作ってにゃーん!!という遊びがいちばん心安らぎます、
今日もにゃーにゃー明日もにゃーにゃー!
誰か台本をください。なにからなにまで私の行動を決めてください。
「では、このボタンを押しなさい」
これはなに?
「ミサイルのボタンですよ、東京ドーム100こぶんの命がなくなります」
東京ドーム100こぶんって何人ですか?東京ドーム入場者すういっぱいの命ですか?
「いえ、東京ドームの容積いっぱいの心臓ぶんですから、もっと死にます」
それじゃあだめじゃん、春風亭昇太でーす!!!!!!!
押したじゃないか。受験するボタン。参考書を買うボタン。制服を着るボタン。ぜんぶじぶんで押したじゃん。
だからわたしは今日もにゃーにゃー明日もにゃーにゃー。次に押すのは結婚するボタン、母親になるボタン。
出口はどこなの?「私が出口なおです。」まじか。それじゃあだめじゃん、春風亭昇太でーす!!!!!!

Toshl

2歳くらいの子供は踏みそうになる。カサカサに乾いた葉っぱをしゃがんでひろい、母親に見せる。それを目撃した瞬間に、大量の落葉を小さい足で踏み鳴らしたかつてのことを思い出した。ママ、パパはいろんなところに連れてってくれた。もう1度子供に戻ることはできないのは当たり前なんだけど、それをきちんと自覚することって難しいし、わかっているつもりでも、腑に落ちるときが訪れて初めてものすごく悲しくなったりするものだな。悲しいというより辛い方が大きいかもしれない。死にたくないって気持ちも誘発されるから。

隣のゴミ屋敷が取り壊されて、まっさらな土地になり、値段がついた。その土に、スプーンが半分埋まって取り残されているのを見ても、同じような気持ちになる。そんなことばかり考えてしまうのは、元気がないからだ。どうしていいかわからないから。何もしないのも不安だ。でもバイトに行くまでの時間も憂鬱だ。絵を描こうとしても何も思いつかなかったりする。

夢が迫ってくる。明け方の夢でしか感じられなかった空気が、少しずつ漏れてくるのを感じる。くだらないことを考える。明け方の夢は、たまにとてもくだらない。恋人が死に、失意の私と、洗脳から立ち直ったToshlが出会い、少しずつ歩み寄っていく。恋人が死んだ喪失感と、それによりすべてを拒否している自分が、少しずつToshlによってほどけていく過程を、私は目が覚めてなお覚えている、彼氏は死んでいないのに。Toshlにも会ったことないのに。Toshlのファンでもなんでもないのに。Toshlのことなんてひとつも知らないのに。大真面目にその話をして友達の爆笑を誘うことで、夢でよかったと安心できる。このmixiをToshlに見られたら、たぶん新手の洗脳だと思われるだろうな。

百均のカーネーション

 

小学生の頃、母の日に100円ショップでカーネーションの造花を買ってママにプレゼントした。その1週間くらいあとのこと。

由比あたりの海辺の祭りに家族ででかけて、アイスをなめてたら、近くにいた中学生くらいの女の子三人組が、母の日の話をしていて、「うちのお母さん、百均のカーネーションで喜んでたww100円なのにww」「マジwwww」という会話が耳に入ってきた。

そのときわたしは、私もおなじなの!!百均でカーネーション買ったのお!!!すごい偶然!!!と思って嬉しかったんだけど、あとから思い返したら、百均のカーネーション、彼女たちの文脈と私の文脈ではぜんぜんちがうということに気づいた。

 

100えんという安価なものをあげて、それとしらず母が喜ぶ、というのは、彼女たちは笑っていたので、どうやら「ウケる」らしい。とわたしは学んだので、同じように、おばあちゃんに、「100円のカーネーションママにあげたらよろこんでたんだよ、100円なのにね、」って話したら、「なっちゃんはママ思いでえらいね」と返されて、「わらてくれないの…?」となった。

 

時はながれて高校生になった頃、ツイッターがまだいいねじゃなくて星で、リストは半角英数字でしか作れなかった頃、テレビで剛力あやめが出るたびに「妖怪」「ブス」というのがおもしろい、という流れが一部のツイッタラーであった。冷静に考えて全然おもしろくもなんともないのだけど、それがユーモア、という流れが生まれたら、こぞっていろんなアカウントが剛力彩芽の見た目を笑った。

そのときに、なんか、カーネーションのいきさつを思い出した。

いろいろ気にくわないことはたくさんあったのかもしれない、歌がどうとか、事務所のごり押し、とか、でも、剛力あやめの見た目って、そんなにめちゃくちゃ面白いのか、それともそうたいして魅力的でないと思うひとが表に出てるってことが面白いってことになっているのか??レイア姫可愛くないじゃん!!みたいな??(レイア姫はかわいいよ!!)

剛力現象はいろんなところであった。ある音楽家がある政治的な集会に出たことに関して、「世界で認められる音楽家がこんな主張を表明した笑い話を語り継ごう」というツイートが伸びていた。真逆の考えをもつひとたち、対立するイデオロギーの人たちからしたら、たしかに、「あいつあんなこと言ってるよ」って笑えるのかもしれない。でも、ふだんそんなこと話しもしない人から、きゅううにそういうのがリツイートされてきたりするのに違和を感じた。たぶん、「この考えを笑っておけば、ユーモアだ」ってことなのかな、とおもう。

 

 

私が中学生の会話を聞いて、「ああ100円のカーネーションはウケるんだ」と思ってしまったのと同じ流れで、「自分がどう思うかはおいておいて剛力彩芽をブスって言っておけば、ユーモアになるんだ〜」と思う人をみて、なんか、こうやって笑いの流行ってできるのか、と思った。でも私をほめたおばあちゃんみたいに、そこから外れたひとは笑わないし、そういうひとのほうが多いことのほうが多い。

 

 

 

 

 

 

言いのこされたことと言わないこと

 

「気づき女子」とかいう言葉をタイムラインで見かけた。空がきれい、ごはんがおいしい、秋の匂い、といった、日常で得られる「気づき」をSNSで発信する界隈を指すようだ。そのpostの、写真に添えられた、ポエトリーなひとことが、自己主張が強く感じられて鬱陶しい、といったニュアンスで使われていた。「空が綺麗なことに気づく私を見てほしいんでしょっ」という反感から生まれた言葉らしい。

 

空がきれいとか季節の匂いが変わったとか、ではSNS以外で誰に話すかなあと考えたら、小さい頃、母親がどんな些細なおしゃべりもうんうんとうなずいてくれたことを思い出した。

なにかに気づいて得た感情を、説明するということは、大人になればなるほど、うさんくささや作為的なニュアンスで受け取られてしまうのかもしれない。

逆に言えば、「多くを説明しない」ことが潔さや誠実さを演出する、ということもしばしばあるのだろう。

 

いつだったか、授業で、日本の文学は、言い残されたこと、言い切れなかったことに、重きをおく傾向がある、ということにふれたのを、「気づき女子」という言葉を見て思い出したんだな。

説明しきれない、ということに奥ゆかしさや謙虚さが見えて美しい、だからあれこれ言葉を尽くすのは逆に鬱陶しい、といったところだろうか。

だけど矛盾がある。短歌も俳句も「気づき」じゃないか?

短歌や俳句と比べたら、インスタグラムなんてお粗末に見えるのだろうけれど、

「気づき女子」ってそんなに嫌われるようなこと、しているんだろうか……

 

わたしも、けっこう、失敗している。

いまもしつつあるんじゃあないか?

自信満々にお粗末なことをしている人がいたら、それをそいつ自身に思い知らせてやらなくちゃならない、あなたのしていることなんてこの程度なんですよって、

そういう心理がよりインターネットだと顕著に現れるなあとおもう。

 

いまでも思い出すと苦しいのだけど、フェイスブックで、とある先生と門下生の間で、時事問題などについてステートメントを投稿するということをやっていたら、「あいつは意識が高いことをフェイスブックでやっているらしい」というのが同級生から当時の彼氏に回って、「彼女がそういうことをしているとはずかしいからやめて。」と言われた。振られた。

ツイッターでいろいろ発信していたら、ネタにされたことも、すごく悲しかった。

けれど、お粗末なことをするわたしがぜんぶ悪いし、ネタにされたくなかったら、もっと頭をよくして説得力をもたないといけないんだ、この世界では、と思ったのだ。

場所を変えれば、そんな目に合わないし、郷に入っては郷に従えってことなのかな、と、思っている。

その反面、なっとくできないこともたくさんのこっている。

 

この文も、公開したら、おなじひとたちにぼこぼこにされるんだなって思うといやだ。

でもあえて書いているのは、そういうことに気力を削がれたくないな……って思ったからなのかもしれない。

言いたいことを言葉を尽くして説明するってことを、性懲りも無く諦められなかったってだけなのかもしれない。

私は、「気づき女子」って言われて、はずかしくなちゃって、空の写真を上げなくなっちゃう人がいるとしたら、うーん、それは「成長」じゃないと思う。場合によるけど。

一方で、わたしが、笑われたことで、一旦投稿をとりやめて、いちいち主張をする必要はないんだ、と思い直したことは、ある意味、「成長」だったとおもうけれど、それはけして、笑ってきた人の手柄ではなく、私がおもいなおしたからだ ってことは言いたい

 

 

そして、もう一回、「後退」しようとしてるのかもしれないけど、

なんでか、思い立って、新しく、日記を書きました。

 

それは、先にも書いたけど、

場所を変えれば状況も変わるな、と思ったからです

意見のあうひとだけの場所に行くとか、そういうことではありません

「何か、お粗末でも、発信していること自体を笑わない、それが当たり前のところ」を

なんとなく見つけたからです。

「内容のお粗末さを笑う」ことと「お粗末なことを恥ずかしげもなく発信してるって笑う」ことは全然違うし、

少なくとも前者で笑われたことについて私は反省しても、後者については納得しませんでした

だから、mixiに書き続けました

 

私は、言葉をたくさん使って説明したいんだな、と思います、

バランスを大事にしたいです。