読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

言いのこされたことと言わないこと

 

「気づき女子」とかいう言葉をタイムラインで見かけた。空がきれい、ごはんがおいしい、秋の匂い、といった、日常で得られる「気づき」をSNSで発信する界隈を指すようだ。そのpostの、写真に添えられた、ポエトリーなひとことが、自己主張が強く感じられて鬱陶しい、といったニュアンスで使われていた。「空が綺麗なことに気づく私を見てほしいんでしょっ」という反感から生まれた言葉らしい。

 

空がきれいとか季節の匂いが変わったとか、ではSNS以外で誰に話すかなあと考えたら、小さい頃、母親がどんな些細なおしゃべりもうんうんとうなずいてくれたことを思い出した。

なにかに気づいて得た感情を、説明するということは、大人になればなるほど、うさんくささや作為的なニュアンスで受け取られてしまうのかもしれない。

逆に言えば、「多くを説明しない」ことが潔さや誠実さを演出する、ということもしばしばあるのだろう。

 

いつだったか、授業で、日本の文学は、言い残されたこと、言い切れなかったことに、重きをおく傾向がある、ということにふれたのを、「気づき女子」という言葉を見て思い出したんだな。

説明しきれない、ということに奥ゆかしさや謙虚さが見えて美しい、だからあれこれ言葉を尽くすのは逆に鬱陶しい、といったところだろうか。

だけど矛盾がある。短歌も俳句も「気づき」じゃないか?

短歌や俳句と比べたら、インスタグラムなんてお粗末に見えるのだろうけれど、

「気づき女子」ってそんなに嫌われるようなこと、しているんだろうか……

 

わたしも、けっこう、失敗している。

いまもしつつあるんじゃあないか?

自信満々にお粗末なことをしている人がいたら、それをそいつ自身に思い知らせてやらなくちゃならない、あなたのしていることなんてこの程度なんですよって、

そういう心理がよりインターネットだと顕著に現れるなあとおもう。

 

いまでも思い出すと苦しいのだけど、フェイスブックで、とある先生と門下生の間で、時事問題などについてステートメントを投稿するということをやっていたら、「あいつは意識が高いことをフェイスブックでやっているらしい」というのが同級生から当時の彼氏に回って、「彼女がそういうことをしているとはずかしいからやめて。」と言われた。振られた。

ツイッターでいろいろ発信していたら、ネタにされたことも、すごく悲しかった。

けれど、お粗末なことをするわたしがぜんぶ悪いし、ネタにされたくなかったら、もっと頭をよくして説得力をもたないといけないんだ、この世界では、と思ったのだ。

場所を変えれば、そんな目に合わないし、郷に入っては郷に従えってことなのかな、と、思っている。

その反面、なっとくできないこともたくさんのこっている。

 

この文も、公開したら、おなじひとたちにぼこぼこにされるんだなって思うといやだ。

でもあえて書いているのは、そういうことに気力を削がれたくないな……って思ったからなのかもしれない。

言いたいことを言葉を尽くして説明するってことを、性懲りも無く諦められなかったってだけなのかもしれない。

私は、「気づき女子」って言われて、はずかしくなちゃって、空の写真を上げなくなっちゃう人がいるとしたら、うーん、それは「成長」じゃないと思う。場合によるけど。

一方で、わたしが、笑われたことで、一旦投稿をとりやめて、いちいち主張をする必要はないんだ、と思い直したことは、ある意味、「成長」だったとおもうけれど、それはけして、笑ってきた人の手柄ではなく、私がおもいなおしたからだ ってことは言いたい

 

 

そして、もう一回、「後退」しようとしてるのかもしれないけど、

なんでか、思い立って、新しく、日記を書きました。

 

それは、先にも書いたけど、

場所を変えれば状況も変わるな、と思ったからです

意見のあうひとだけの場所に行くとか、そういうことではありません

「何か、お粗末でも、発信していること自体を笑わない、それが当たり前のところ」を

なんとなく見つけたからです。

「内容のお粗末さを笑う」ことと「お粗末なことを恥ずかしげもなく発信してるって笑う」ことは全然違うし、

少なくとも前者で笑われたことについて私は反省しても、後者については納得しませんでした

だから、mixiに書き続けました

 

私は、言葉をたくさん使って説明したいんだな、と思います、

バランスを大事にしたいです。