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春の匂いを感じることと本屋でトイレに行きたくなることは実は似てるのかもしれない。根拠はないけどあるという点で。 
昨日は体調が悪すぎてずっとテレビをつけながらゴロゴロしていたら「いないないばあ」が始まった。小さいころおやつが終わるとずっとテレビを見ていた。そのころ私が住んでいた部屋は小さめの3LDKで、リビングには灰色でごわごわしたラグがしいてあって、いまでも、足を投げ出してラグに手をついて座っていたあのごわっとした感触が手のひらで思い出せる。風邪をひいたときもずっといないないばあ、おかあさんといっしょなどを見ていた。懐かしい気持ちになった。ワンワンは声が少し老けた気がする。

 

子供番組を見ていると小さい頃の私の胸の中のざわつきが少しだけ蘇る。価値観を持たなかった頃。漢字も読めなかった頃。毎日新しいものだらけだった頃。それは、あたたかい気持ち、わくわくする気持ちとは、かなり違うのだ。新しいものにであうことを「わくわくする」と思うようになったのはいつからだろうか?とにかくあの頃の私の気持ちはシンプルで、楽しいことは楽しくいやなことはいやだった。今日えたことがこの先につながるということは考えたこともなかった。ここが大きく違うのだ。膨大な情報を私の頭が自動的にインプットして行くことに、そこに、私の意思なんてなかった。私の意思なんてなかったんだ。生まれた時から実装されていたプログラムが実行されていただけ。あの頃の私は、花を綺麗と思ったのだろうか?思ったと思う。かわいいと思った。でも、今私が道端で見つけた可愛い花を写真に残そうとしゃがみこむときの「花可愛い」は、あの頃花に対して思ったものと全然ちがって、もっと社会的なものに思える。新しいことにであって「わくわくする」と思うことだって社会的なものに思える。あの頃の私は、目の前に現れたものをしょりすることだけにエネルギーを使っていた、そしてそのようにして処理された記憶は、感覚ごと、私の身体に刻まれていて、それは物心ついて能動的に学びをはじめようと思って以降私が得た記憶とはまた違う性質を持っている。私という意思の存在。 

やっと少し言葉にできた。小さい頃やたらとごっこあそびにのめり込んでいたが今はそれが難しいのは、たぶん、あの頃のごっこあそびは私の意思じゃなかったんだ。 

小さい頃、私の心は飛び跳ね、叫び、驚き、泣き、すごい勢いで成長していたけれど、それは、私が成長しようと思ってしていたことではなく、自然の摂理とかもっと個人の意志の及ばないところの作用によるものな気がする。 


私がずっと追い求めていた小さい頃の感覚、どうして今それができないのかという悩みは、当たり前だった。一昨年、どうしても、小さい頃の感覚を思い出したくて、ほんの3歳の時に住んでいた場所を訪れたけど、納得がいくものを得られなかったのは、私がそこに「行こう」と思った時点で、うまくいくはずがなかったのだ。 

私にはもうこの世の中の手垢にまみれているし、今私がなにかを得ようとする時、それは私の明確な意志によるものであるのだ。でも、全てがそうではないとも思う。感受性が失われたわけではなく、それを動かそうという意志がわたしに芽生えただけで、いまでも私は「何か」から与え続けられているのだろう。 


ワンワンを見ていたら、少しだけ、膨大な新しいことが流れ込んでくるときの、ほとんど思考は無な一方で、体がぞわぞわする感覚を、ほんとうに少しだけ、追体験できた。昔の学校教材を見る時にも同じ感覚になったのは、たぶん、そういうこと。 



あきらめがつきました。きっと、いまだにそういう感じで、世の中を取り込み続けている人を、天才というのでしょう。そして、それは、歳を重ねるほどしんどいことで、だから「子供でい続けるのはつらいこと」なのでしょう。

 

 

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先ほど書いた「小さい頃の感覚」について、少し通じるのかもしれないいと思い、 
半年くらい前に友達としたラインを、日記にまとめます。 
もし、mixiに日記を書いてなかったら、まとまらんかったことかもしれなせん。 
去年書いた「感じ」の話もそう。 
文章にしてよかったと思います。 

私は「超越的な他者の内面への介入」を感じ続けている、それはオカルト的なものではなくて、うまくいえないけど、……だからその正体について考え続けているのかもしれない。

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私 

「私は小さい頃から死ぬのがめちゃくちゃ怖くてよくパニックになってたんだよね 
それとは別に、私が見る夢に二種類あって、ひとつは普通の夢、もう一つは特殊な夢 
後者は、なんか空気感が違って、ああ今この夢見てるな、って感じなのね 
別の世界に来た感じ 
「あ、またこの世界に来た」って感覚 
なんか物寂しいのに、寂しいという雰囲気がある、って感じで自分の感情が寂しいわけじゃない、みたいな不思議な場所なんだよね 
今までそういう場所には夢でしか行けなかったんだけど、 
こ1年くらい、普段起きてる時も、一瞬その感覚がよぎったりするようになった 
さみしい世界がよぎったりすること自体は怖くないんだ 
だけど、だんだんこんな感想を抱くようになったんだよね 
死後の世界ってこんな感じなのかな、って 
死後の世界の話は、私は、死ぬのが怖いから、絶対にあると思わないと怖くてやってられないんだ 
いままでいろんな宗教観や死生観、死の恐怖を乗り越える手段を目にしたけど、どれも私の恐怖を煽るだけだったので考えないようにしてるんだけどね 
こないだツイートした時、ふと思ったんだよね 
厨二病みたいだけど、なんか、私がこんなに死ぬの怖いのって、実は触れてはならないことに気づきかけてるからじゃないか、って 
死の恐怖がグワッてやってくるのは、触れてはならないことを理解しそうになるから、ストッパーとして起こる発作なんじゃないかって 
その「触れてはならないこと」って神様の正体とかそういう方向のことかなって思ったんだ 
第三者の意思で私にパニック障害が備え付けられたのだとしたら、その第三者とはかみさまでは? 
神様にとって都合の悪いことに触れようとするから、死ぬのが怖くなるのでは? 
その都合の悪いこととは、私が夢で迷い込む世界にあるんでは?と 
そしたらちょっと死の恐怖が和らいだんだよ 
私は、自分の想像力で、当面の間死の恐怖を乗り越えられるんじゃ?! 
っていう万能感で気持ち悪いツイートしました 
長文失礼しました」 





友達 


「なつこさんの主観的・個人的世界である以上は自分の解釈なんか意味ないし、自分は臨床心理もハイデガーもやっていないので大したことは言えないけど...最近読んだのにこんな文章があって。 

離人症は生きられるものとしての世界から弾き出され、薄い皮膜によって世界-事件の外部に隔離されてある状態であるだろう。生きられるものとしての世界から隔離された者にとって自身及び世界は直接的な実感を伴わない空虚に閉ざされる。そしてしかし逆にその者にとって、生きられたものとしての熱気を奪われた世界は、ちょうど冷やかに感染されるボクシングの試合のように、謎のない透明さと、如何に複雑な絡み合いや迷いに満たされているように見えても、究極的には単純な解析可能の動態として見透かされる。離人症者は生きてある実感の喪失の引き換えに、奇妙な透視、空虚な神の透視の能力を付与される。」(丹生谷 1989) 

725さんのいう「特殊な夢」というのはこの世界観に似てるように思った。これはいわゆる分裂病・統合失調症とかにも関わる難解な問題だけど、これに関して言うと、「神様」というのはその分裂病の症状について木村敏の謂う「自己の他性化」、つまり、自分の中心が超越的な他者によって奪われているとか、自分の内面で誰かが自分の行為を操作している・仕組んでいるとかの感覚に似ているようにも思える。主体性が持てない、誰かに操られている、仕組まれているという作為体験。 


全く話が着陸する気配がないので、もう少し現象学とか精神医学の基本的知見を会得して有益な助言ができるようになって出直してきますb 


まとまりなさ過ぎてごめん」